11年務めていた会社をやめて35歳から始めた旅の記録
2017年5月出発した旅のことを、記憶と記録を頼りにつづってみようと始めました。
書き方などはだんだん良くなるはず(笑)なので、見守っていただけると嬉しいです。
※途中、記憶違いや文章の構成的にフィクションが入るかもしれません。ご容赦ください。
巡った順序 → 日本 → (韓国) → ロシア → フィンランド → スウェーデン → デンマーク → ノルウェー → エストニア → ラトビア → リトアニア → ベラルーシ → ウクライナ → ポーランド → ドイツ → チェコ → オーストリア → スロバキア → ハンガリー → ルーマニア → モルドバ → (沿ドニエストル共和国) → モルドバ → 続く…
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こんにちは、mickです。
チェルノフツィに来たもうひとつの目的地、ホトィン要塞へ行った日。
ここの要塞は、結構気に入ってます。
帰り道、初めて地元の人にバスターミナルまで送ってもらったけれど、信じてよかった。
宿では、日本人の方やスペインからの人と会話。
深い話したなぁって思う。
旅っぽいことした。
日付:2017年8月3日(木)秘境ホトィン要塞
日付:2017年8月3日(木)
地域:チェルノフツィ、ホトィン
天候:晴れ
いい朝
「よく眠れた」
そう思えた朝。
部屋には窓がなく、出発する人たちも電気をつけなかったように思う。
「このホステルいいな」
なんて思っていた。
朝、ゆっくりと準備をして今日の目的地のホトィン要塞までくことにした。
ホステルのスタッフは入れ替わっているようで、昨日のフレンドリーな雰囲気は激減していた。
昨日、挨拶したBPの男性が外にいたので挨拶をして出発。
ホトィンへの道
遠方へ行くためのバスターミナルへは慣れたものだ。
今日は、12番のバスで向かった。11番と比べて少しい遠回りだったが無事に着いた。
途中、バスの座席をおばさんに譲ったら、とても喜ばれた。
ゆずりたかった、という気持ちを大事にしていこう。
バスターミナルの窓口でバスチケットを買おうとしたらーー
「運転手から買ってね」
ということで、乗車。
なんと車内は満席になり、この移動は、狭い、暑い、で辛い移動になった。
昨日のブログのこともあって、「今日は心をみつめる日」を読みながら行く。
それでも途中で寝て、気がつけばもうホトィンに着いていた。
ちなみに、このマルトルーシカは、悪路で小舟が波に遊ばれるように揺れた揺れた。
バスターミナルから歩いて50分
帰りのバスの時間を確認してから、Google Map と maps.me でホトィン要塞の位置を確認。
昨日に続いて、また50分歩くようだ。
決意して出発。
「タバコ吸うかい?」
喫煙所の近くでおじさんが煙草を出してきた。
めっちゃニコニコしていた。いい人そうだった。
歯はボロボロだったけれど。
スーパーで500mlのコーラを10フリヴニャ(当時、約50円)で買って、力をつけて歩く。
かなり暑いので、なるべく木陰を選びながら歩く。
この辺りは、田舎で車もみたことがない箱型の古い車だった。
オールドカーとは少し違う。
おそらく、旧ソ連のものだろう。
道中、猫を見たり、公園のモニュメントをみたりしながら歩く。
各地にあるのだろう、永遠の炎は、ここは消えていた。
これはいったい何を意味しているのだろうか。
この辺り、いやウクライナをで言えることだがアジア人をみない。
いるだけで自分は目立っていた。
だいたい、40分でホトィン要塞の看板までたどりついた。
車の駐車場ゲートをこえていく。
「あっちだからな」
番人の兄ちゃんが方向を示してくれる。
近くにトイレがあるものの、下の草むらに垂れ流し状態。
女性は恥ずかしいと思う。
自分は、祖母の家が昔のポットントイレだったし、そんなに抵抗なく使える。
1冊のノートが置いてあったが、きっとおしり拭きようなんだと思う
いたそう…
ホトィン要塞
物売りの声をくぐり抜けながら、要塞へ。
城壁をくぐると草原が広がって、その先に要塞が建っていた。
何も遮るものがなく、要塞、川、草原。
かつての城壁と行った景色は、これまでみたお城や要塞の中で、一番自然が美しいと感じた。
ここが戦いのための場所だというのは嘘みたいだった。
この旅で、初めてよつんばいになって写真を撮った。
入場料は、40フリヴニャ(当時、約200円)とお高め。
来場者が少ないんだろう。
200フリヴニャ紙幣をだしたら、小さいのくれっていうから、50フリヴニャ紙幣をだして、10フリヴニャのお釣りをもらった。
田舎では、あまり高額紙幣を受け付けてくれない。
ツーリストには困ったもんだ。
要塞内はこじんまりとしてはいたが、カミャネツポディリスキーの要塞内よりは好き。
中の博物館は、トルコの占領時代のものが展示してあった。
油絵は、これまでみたことがないタッチ。
そもそも、戦争物を油絵で描いているのがめずらしいのかもしれない。
トルコらしく、象を使った兵器の絵が印象深い。
地下の空間は、灼熱の外とはうってかわって、寒いくらいひんやりしていた。
ここまで違うのか、というくらい。
また、中には入れなかったけれど教会もあったようだ。
更に地下には、昔の兵器の展示、ある塔は拷問具の展示。
兵器は、バリスタや巨大な投石機が目についた。
動かすの大変だっただろうな。
拷問具は、よくぞ考えたというものばかり。
身体の自由を奪って、針を中心に痛みつけたり、しばることで痛みを与えたりと目を覆いたくなるものばかり。
十字架の鉄の棒の拘束具は怖い。
動けなくなり、筋肉も次第に落ちていってしまうだろう。
頭を締め付けるのも、シンプルがなが嫌だった。
要塞は広くないので、短い時間でまわることができる。
本当は、川の対岸から観るのがいちばんカッコいいのかもしれない。
語学力があれば、周囲にある要塞も合わせてタクシーで頼めるんだけど、、、なんて思っていた。
外壁の染み、少女オクサーナの涙の場所はわからなかった。
周辺を散策する余裕は残してなかった。
逆ヒッチハイク
また歩いて帰るぞ、と気合を入れてバスターミナルに向かって歩き出す。
来るときに車のボンネットを開けて車のエンジンがかからないのを修理している光景を見た。
おそらく、修理場の前での出来事。
今の日本ではみない光景だな、なんて思いながら歩いていた。
すると1台の車が停まった。
グレーの見たことのない車種。
普通車にしては少し小柄。載っているおじさんはに使わないくらい大きい。
「どこにいくんだい?」
と来ていただろうから
「バスターミナルです」
と応じる。
「乗っていきな」
そうジェスチャー。
この旅で初めての出来事。
乗っていいかどうか、一瞬のうちに頭をフル回転させる。
目と笑顔の口角の上がり具合あたりで、OKサインを感じて乗せていただいた。
容赦のないウクライナかロシアの言葉で質問をしてくるのだが、さっぱり。
とにかく推測する力を働かせる。
「どこにいくんだ」
「1人か」
「どこからきた」
「暑いな」
といったことだと思う。
のぶきさんが乗せていただくなら寝てはいけないし、楽しませろ、という言葉が頭に常にあったが、いざやるとすると大変。
何より、言葉がわからん。これっていいわけだろうか。
バス停に着くと「あっちの方向だからな」
とまで教えてくれた。
めっちゃいい人やん。
握手をさせてもらって別れた。
チェルノフツィに戻る
お金を出したほうが良かっただろうか。
一緒にお茶を一杯、セルフィーを1枚といろいろ思ったが思うだけだった。
窓口でチェルノフツィへのバスチケットを買う。
おばさんは、乗り場と時間を教えてくれた、と思う。
おじさんに送ってもらったおかげで、16:05のバスに間に合った。
バスが来ると、窓口のおばちゃんが、「あれよ、あれ」とジェスチャー。
ありがたい。
帰りのバスは、少し座席にゆとりがあった。
帰りも悪路でめちゃ揺れる。
よくここで寝てたなって思った。
隣の若い子の胸がそのたびに揺れるからエロい。
顔もかわいいかった。が、性格がきつそう。
バスターミナルからホステルに戻る。
路線バスでは、集金を募る子どもが乗ってきた。
専用のジャケットがあるのか、運賃も払っていない様子だった。
日本から来た城好きの旅行者
ホステルのキッチンで日本人の男性が食事の準備をしていた。
相手は日本人に会えたことに驚きを隠せていないでいた。
今日、ルーマニアのスチャバから来たそうだ。
ロシア語、キリル文字圏に来て面食らっていた様子。
それでも、話を聞いていると旅人だった。
若い頃から旅をしてきて、子どもが生まれたのを期に休憩。
退職後に自由にやっているそうだ。
1年のうち、2から3か月のペースでやっていて、奥さんの願いで工程表をつくった上ででてきているそう。
「あなたには帰る場所があるんですからね」
素敵な奥さんだ。
グローバルな視野が必要な今日に、外国に行かない若者。
この先の日本をあんじていた。
言葉が通じなくても外国に行ってみて感じて欲しいと。
彼もお城を中心に各国を巡っているらしく、ポーランドのトルンを勧めてくれた。
他にはヴロツワフ。チェコのカルルシュテイン城。
チュニジアの話では、イタリアのパレルモから船でチュニスに行ったとか。
各国の経済を見るとき、女性の化粧品が大々的に売られているか、生花を買って飾る余裕があるか、だそうだ。
前者は特に目からウロコだったな。
いい人なんだけれど、少し頑固なところを感じた。
「でも」というキーワードが引っかかった。
明治は多くの若者が、海外へ出た。
今の人口を考えると内需だけでは足りないので、外と付き合わざるえない、など。
インドのブッダの聖地を回った話は驚いた。
65から69歳の間の2か月で、交通の便が悪い中に行ったというからなおさらだ。
南インドは素晴らしいと言っていた。
小柄なのにすごいエネルギー。頑固だがこれまでの日本を支えてきた年配の方の気持ちを感じる。
クリミア半島の話は、別の視点をもっているらしくて、ナカムラさんの話はきいてくれなかったようだ。
ポーランドとチェコの魚の燻製も勧めてくれた。
すっかり話し込んで日記を書く時間がなくなる。
連絡先を交換。彼は、Iセキさんといって、東京の中十条に住んでいるとか。
明日の朝、バスでリヴィウに向かうという。
ホステルの人は親切にしてくれたが、タクシーは70フリヴニャ(当時、約350円)もバスターミナルからとられて大変だったようだ。
今後、数年でウクライナは入国できなくなるかも、と危惧していた。
ウクライナは、これから。
そんな話をしたら、資源も人材もないのになぜそう思う?
とするどいことをいわれて、答えられなかった。
甘かった。そう痛感した。
Iセキさんの話を聞いているとなんだか励まされて、そして未来の日本を託された気がして目頭が熱くなったのを感じた。
そして、この人のこれまではどれだけ大変だったか。
素敵だったのは、その大変さを受け入れて、そしてよかったんだと話してくれたことだ。
なくしたくない出来事だと。
目の前の笑顔の裏には、どんなストーリーがあるのだろうか。
夕食はローカルレストランで
日本からの最後のインスタントラーメン、ルーマニアの鶏肉、プチトマトを食べる彼をみていたらお腹が空いたので食事に出かける。
彼も今日のことをまとめる、そしてそれを仲間に配信するそうだ。
個室を取っている理由を聞いたら、自分は他の人とリズムが違うから、迷惑にならないように個室を取るようにしている、と。
日本人だ。
ガイドマップにのっていた、肉が食べられそうなお店は閉まっていたので、その辺りを歩いていると、1つのお店が目にとまった。
最初、通り過ぎたのだがもう1度戻って中を伺う。
車にのっていた警備員の人っぽい人が勧めてくる。
「美味しいの?」
「美味しいぞ」
と帰ってきたので信じることにした。
ウクライナ語のメニューだったので、Google翻訳でみながらきめていく。
「写真は止めてね」なんていわれながら。
肉とサラダ、ビールを注文。
牛肉のつもりだったが、鶏肉だった。それでもすべて美味しい。
サラダも甘酸っぱい味付けで、キャベツと人参とシンプルだがおいしい。
ビールも0.5リットルが20フリヴニャ(当時、約100円)。
全部で500円にいってない。
明日も来ようって思った。
会話のキッカケは停電
ホステルに戻ると、建物の電気が消えている。
停電のようだ。
スマホが15%を下回っていたのでマズイ。
Wi-Fiも使えないし、クーラーも。日記も書けない。
そう思い焦った。外には隣のベッドのBPがいたので、話しかけた。
「停電みたいだね」
かれはスペインからきたそうだ。
2人で夜のチェルノフツィを散歩することにした。
気持ちがいい風。
水を買いたい彼だったが、スーパーは閉まっていた。
露天のコーヒーショップでカフェラテをごちそうしてくれた。
ベンチに座って話をする。
彼は3年の予定で旅をしていて、いまで8か月だという。
リヴィウからきていて、そこはとても素晴らしいと勧めてくれた。
Girls Hostel も少し高めだったがよかったという。
彼は、ファンという。
「なんかあなたと話がしたかったんだ」
「おれもだよ」
彼が男なのが残念なやりとりだ。
日本にはいったことがないが、弟さんが居たことがあるとか。
「家族が寂しくないかい?」
「もちろん」
お互いが同意する。
「よく電話するよ。うちはアナログだから」
「こっちは母だけがそうで、デジタルなことは父が全部やっているよ」だって。
「明日、出発が深夜の0:28の夜行列車で駅の周辺が安全かどうか心配なんだ」
「なら一緒に行ってやるよ」
「え、いいよ」
なんていったけれど、どうなることやら。
日本人も英語話せないけれど、スペイン人もそうなんだって笑っていた。
子連れが20:00過ぎても歩いている。
夜は心地よい。いい時間が流れていた。
23:00頃、ホステルに戻る。
「日本人はどうやって、たくさんある文字を入力しているんだ?」
という質問に、スマホでローマ字入力でひらがなを出し、さらにそれを感じに変換してみせると、納得していた。
そして、ひらがな、カタカナ、漢字をミックスして使うことも伝えた。
心配から眠れぬ夜
ホステルの電気が回復。
彼は水を買い、下でくつろぐ。自分はシャワーを浴びた。
キッチンでIセキさんの横で日記をつけて、2:00前にベッドへ。
ファンがはいってきたときに、Iセキさんが彼を無視しているようなのが気になった。
ベッドでアマゾンプライムで「ラッシュ・アワー」をみながら寝る。
この日、ポーランドで会う予定の友だちから心配なメッセージが入った。
ポーランド行きが危機的状態に。
それでもベラルーシ中心の工程で進むかも、みたいになった。
自分からは何も言えず、何も聞けず。
「なんとー」というマヌケな返事しかできなかった。
会えるのを楽しみにしていたというのもある。
それに荷物は絶対にほしい。
ポーランド行きのチケットの数が少ない。一度入国するとシェンゲンのカウントが始まってしまう。
おそらく、ストレスを感じていたんだと思う。
この日の夜に、ビールを飲んだにもかかわらず、早朝4時過ぎ。
Iセキさんが朝に起きて、準備を始めるまで寝付けなかった。
この旅始まって、初めてのことだった。
補足
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