【旅の記録】命のビザ、カウナスの杉原千畝記念館:リトアニア【59】

【旅の記録】世界一周スタート:日本(次の目的地はロシア)【海外放浪】 リトアニア

11年務めていた会社をやめて35歳から始めた旅の記録

2017年5月出発した旅のことを、記憶と記録を頼りにつづってみようと始めました。
書き方などはだんだん良くなるはず(笑)なので、見守っていただけると嬉しいです。
※途中、記憶違いや文章の構成的にフィクションが入るかもしれません。ご容赦ください。

巡った順序 → 日本 → (韓国) → ロシア → フィンランド → スウェーデン → デンマーク → ノルウェー → エストニア → ラトビア → リトアニア → ベラルーシ → ウクライナ → ポーランド → ドイツ → チェコ → オーストリア → 続く…

初めての方はコチラから → 11年務めていた会社をやめて35歳から始めた旅の記録と記憶

こんにちは、mickです。

この日は、命のビザで知られる杉原千畝さんが領事館で働いたカウナスへ。

1000人以上、戦争でカウナスを離れるギリギリ、鉄道が発車する直前までビザを発行し続けた彼。

その裏には、家族の理解と支えがあったことが記念館でわかる。

めっちゃ胸が熱くなったなぁ。

今の自分が恥ずかしい。

無実の人たちが殺された、キリング・フィールドは各地に残されている。

ここリトアニアのカウナスにも、ソ連が占領下で造った第9要塞というのがある。

コンクリートで造られたそこは、いまでもその冷たさが残っている。

占領に逆らってレジスタンス活動をした人たちの紹介もある。

自国の未来を守るために、自分を犠牲にした人たち。

今の平和な時間からすればとても想像ができなくて言葉がなかった。

日付:2017年7月16日(日)リトアニアのキリング・フィールド

日付:2017年7月16日(日)
地域:ヴィリニュス、カウナス
天候:曇り

ホステルのしょぼい朝食

今日は日曜日。

多くのお店が閉まっている中、もちろん目的の一つであるベラルーシ領事館も例外ではない。

時間が自由に使えるので、早めに遠出としてカウナスに行く日に設定した。

相変わらず笑顔のないレセプションで朝食のチケットを受け取って、場所をきいて朝食へ向かう。

コーヒーか紅茶、クレープの生地だけにヨーグルトソース、ジャムソース、ナッツとレーズンのヨーグルトソースという朝食。

これなら、朝食なしでも同じだな。

追加料金で他のものに変えられるようだった。

他の客がしているのを見てそう思った。

貧乏旅の自分が追加料金を払うわけもなく。

行き先はカウナス

食後、カウナスへ向かうため、ヴィリニュスの駅へ。

ここは近くて助かる。歩いて5分程度で到着するからね。

ちょうど鉄道が行ったあとなのか、30分近く待つことに。

10:25のチケットを買って待つ。

このとき、ベラルーシのトランジットのチケットは帰る時間だったが、迷ったし、なんか怖くて買えなかった。

鉄道でカウナスへ。

ところどころ工事はしていたものの、景色よし。

鉄道で揺れも少ないし、バスよりも安い鉄道の移動は最高だ。

客も少なくて席を独占。

カウナスでの滞在、そしてウクライナから先のことを考えながら車窓を眺める。

急行なので1時間とあっというまにカウナスに到着。

カウナスの駅から中心地までがまた遠い。

レンタサイクルがあれば最高なんだけどと思って、インフォメーションで確認するけれど伝わらない。

レンタサイクル、バイシクルではダメなんだろうか。

身体を伸ばして気持ちを入れ直し、外へ。

昔、初めて群馬の前橋駅からでたときに近い気持ち。

カウナスの駅前、なのもないぞ。

ネットで古い記事ではレンタサイクルがあるようなことを書いているんだけど、最近なくなっているのかもしれない。

あちこち工事で少しさびてれている。

夜は怖いだろうな。

命のビザの杉原千畝記念館

杉原千畝記念館にまずは向かう。

駅から歩いて15分ほどの小高い丘の上にある。

市場で撮影を注意されたり、新しいバスターミナルを散策したりしながら向かった。

途中にある教会へは、寄ることはしなかった。

丘へは階段を上がって登れる。

景色を見るほどは整備、考えられていないようだった。

ここに、この街に杉原千畝の一家が住み、そして激動の第2次大戦を経験したと思うと言葉がでない。

でも、同じ土地に立てることに誇らしさを抱く。

来たとき、おそらくユダヤの学生たちがきていて、目を輝かせて資料をみていた。

ここでは「命のビザ」だが発行者のリストの一部を撮影しているところを見ると、関係者なのだろう。

いわゆるウェルカムノートには、多くの日本人の名前があり、同じ今日の日付である7月16日でも6名の名前と日付があった。

このあとは、日本人ツアー客、地元の2人の日本人学生、4人の個人旅行者とさらに増えていった。

現在ここは、改築中らしくて最初は閉まっているのかと焦ったほど。

別の入口が儲けられていて、入ることができた。

本当に焦った。ここまできてここが閉まってたらショックでかすぎる。

杉原千畝さんのビデオをみて、思わず涙が流れた。

オランダの協力があってのものだとしても、同じ日本人としてとても誇らしくある。

そして奥さんのコメント。

「自分たちの生活もあぶなくなるかもしれないが、人命には変えられない」

この夫にして、この妻である。

ここに彼1人ではなくて、家族の支えも忘れてはいけないことがわかる。

人のことは言えないが、地元の日本人学生が2人、他の日本人に話しかけることもなくいるのは大丈夫かと心配する。

リトアニア語を学んでいるそう。

4人の個人旅行者は、年配ながら元気。

自分の旅のことをいいことだと応援してくれる。

彼らは、ポーランドから入り、リトアニア、北の方へ向かってタリンからヘルシンキまで行って、そこから日本へ戻るそう。

こういう元気な老人たちを、若い人たちに見せてエネルギーにしてもらいたいと思う。

ここに来るだけでリトアニアは十分、そう思わるほど。

日本人の自分にとっては大きな場所だった。

語学に自信があれば、受付の人になぜここで働いているのかきけただろうに。

いつやるの?

いまでしょ!

これまで会った恩師の姿が思い浮かぶ。

ここからカウナスの旧市街まで歩く。

街は日曜日もあってか、閑散としていた。

日本人の先輩のことを想う

杉原千畝さんのことを思いながら歩く。

岐阜県に生まれたかれは、厳しい父、優しい母の間に育つ。

頭いよい子だったんだろう。

わざと父の望む意思の試験を落として、教師を目指したが、有名なのは彼の学んだハルピン学校の校訓。

ネットの力を借りると「自治三訣」という。

「人の世話にならぬよう」

「人のお世話をするよう」

「ひそして報いを求めぬよう」

目頭が熱くなる心にしみるものだ。

最後の移動の記者の中でもVISAを発行し続けてた彼。

最後には「これ以上は書けない。申し訳ない。みなさんの無事を祈ります」

ここであやまるなんて。

このあとの戦後、イスラエルは彼を追ってたくさんのお礼を伝えた。

この人のおかげで日本とイスラエルの関係の今があるのだろう。

今の自分に何ができるのだろうか。

自分のことで手一杯なのに。

カウナス旧市街にあるカウナス城

旧市街までは長い道のりだった。

旧市街まで来ると、観光客が増えてきた。

メイン通りのカフェやバーにはお酒を楽しむ人々で溢れていた。

日本人も見かけた。

他のアジア人は見かけないに等しかった。

旧市街は、きれいなところ。

交通の便をつむれば空気はいい。

それでも1歩通りを外れると、落書きが目立った。

まずカウナス城へ。

4つの打ち、1つの塔を修復。

つまり中は博物館。地下の牢獄がなかなか怖い。

地下の牢には、戦士の声がする伝説があるらしい。

他は、城周辺で発掘された陶器の展示。

昔から有田焼をみてきた自分には、こちらのほうがいいかもしれない。

第9要塞への道

戦争を知る上で、カウナスにある第9要塞へ向かうことにする。

ここ、旧市街からでもバスで15分近くかかり遠い。

本に乗っている通りと乗り場がわからなず、方向だけを頼りにバス停へ。

23, 35, 57番のバスが来るのを待つ。

数十分まって、やっと57番のバスが来る。

慌てて乗って、運転手に地元ガイドの第9要塞の部分を示す。

1ユーロ。

しばらくしてまだ500mから1km手前。

「ここがその通りだ」

といわれるがままにバスを降りる。

ひとつ、なぜこのときに、行きたい場所を明確かつ声に出して言えなかったのか。

いやいわなかったのか。

地図アプリの maps.me を頼りにひたすら歩く。

帰りの電車、17:55には間に合いそうにもないな。

幹線道路沿いなので、歩行者にはあるきにくい。

ショートカットを試みて、道のない草むらを通ることになる。

もうね、アドベンチャー。

ここでビビるとなると、アジアやアフリカとかで死んじゃう。

でも怖い。何がって、草が高くて足元がみえないからだ。

子どもの頃は、こんな道をワクワクして進んでいたのに。

あの頃に戻ることはできないが、また出来るようにはなる、信じたい。

キリング・フィールド第9要塞

バスを降りてから20から30分近く歩いて到着した、第9要塞。

コンクリート造りの要塞は不気味だった。

大きく2つの展示場、記念碑、殺人の広場、管理棟、となっている。

チケットを買って中へ。すでに空気は冷たい。

第9要塞は、ソ連による占領からすぐの殺人写真があって強烈。

ここでは、約5万人のユダヤ人が殺されたところ。

また、多くのリトアニア人も収容されていた。

大量虐殺といえば、ポーランドンのアウシュビッツ強制収容所が有名。

だが、ここも隠された戦争の悲惨さを語る現場だ。

リトアニアのカウナス、そしてエキアkらバスで30分以上。

ほとんど知られず、また訪れる日本人も少ないだろう。

そこに日本人として今立っている自分。

いま自分はすごい経験と体験をしているじゃなかろうか。

医師といった病院をまず攻撃し、医師たちを殺していくソ連のやり方に言葉がでない。

別の人も、ジーザス、と声を出すほどだ。

囚人服やプレートは不気味さを増長させる。

閉館までは、1時間40分。

どうすれば一通り見て回れるか、考えながら進んでいった。

ここの職員は、年配の人が多い。

質問すれば、何かしら当時の情報が聞けただろう。

ここでの写真は、どれも怖く移る。

よく記録を撮ったと思う。

祖国を守るため品を隠したり、抵抗組織が結成されたり。

そちらも強烈だ。1人の若者にクローズアップしての展示があった。

最後は処刑されてしまったようだが、昔の独房の方は、寒い、暗い、壁は何を物語っているのだろうか。

所々、白いのが怖さを増大だせる。

「この穴から数十人が脱走した」

という穴も、何がガス口か何かの噴出口があってもうダメ。

本にある、ユダヤ人に手を差し伸べた人々として展示室は安心する余裕など許してくれなかった。

日本から訪れた人の置き土産のうちわには笑った。

昭和の頃のだろう。

自分もなにかよこしまなところがあるとは、まだ心に余裕があった証拠か。

記念碑、そして殺人の広場。

広場にはかつてなにもなかったかのように、紫や白、黄色の小さな花たちが踊っていた。

周辺は住宅地。

この要塞はスマホでもあまり写真が撮れなかった。

それほど場が強い。

ヴィリニュスへ戻る

閉館の18:00少し前にこの場所を去った。

バス停で待つバス。

カウナスから帰ることばかりを考えていて、ヴィリニュス行きのバスをスルーしてしまった。

これもまた自己主張しなかった例だ。

本当に反省の多い一日。

手を出すと行ったアピールをしないといけないのかバスが停まらない。

少しでもカウナス方面を確認して乗る。

0.54ユーロ。

カウナスに入ったところでバスは停車。

どうやらここまでらしい。

危うく荷物を置き忘れるところで、クラクションを鳴らしてまで運転手さんが伝えてくれた。

ホステルのキーがあったから本当に助かった。

駅までのバスを探す力もなくて、時間も迫っていたから、また歩いて旧市街から駅まで。

30分以上かかった。

英会話のCDをきいて、日本を懐かしむ。

19:15、駅の受付へ。

なんとか19:20に間に合った。

反省も多く、また歴史的体験にも強烈な1日。

とても疲れた。

これで明日の朝、ベラルーシ領事館に行くと思うと滅入る。

車窓からみえた気球、そして夕日を眺める女性がとても美しかった。

ベラルーシへのトランジット準備

ヴィリニュスに戻ると、21:05までの国際チケット売り場が開いていた。

思い切ってチケットを買いに行く。

時間ギリギリだったので少し焦り、対応はイマイチだったが、ヴィリニュスからミンスク、ミンスクからキエフまでのチケットを買った。

これで明日の朝、領事館にいくだけか。

レンタサイクルを使うかは決められなかった。

天候もあるし、なんてね。

夕食もろくに取らずホステルへ。

荷物が増えていた。アジア系な人な気がする。

一度外にでて、スーパーを探すが GoogleMap で遠かったのでやめて、ありもので済ますことに。

「レッスンじゃないんだ」

ホステルに戻って入れ違いで挨拶をした新しいルームメイトとあいさつ。

彼は、樹マール。アゼルバイジャンのバクーから来たそう。

このあとリガまでいって、飛行機で帰るそうだ。

荷物の整理やシャワーを浴びて落ち着いていると彼が話しかけてきた。

今日はどこにいってきたのか、どう旅行しているのか、1人なのか、仕事を辞めて大丈夫か。、このあとはどんな旅をしていくのか、たくさん話をした。

きちんと伝えようとして、黙って考えていると彼が言う

「レッスンじゃないんだ。なんでもいい。正しくなくていい。なにかいうんだ」

自分の課題をスパッといってくれた。

そう、正しさを探してしまう自分。

正しさなんて、そんなものはないのに。

お茶を飲みながら、24時ころまではないていた。

お互いに興味があった。彼はアゼルびゃいジャンの話、そしてロシア語と英語が話せる。

人事関係の仕事らしい。

What’s your professionn?(major?)が通じた。

そう、to be decided、は通じない。

アメリカ英語かな?

あと人生を見つめ直していることを伝えた。

relifeだね、そう言ってくれる彼。

ここになぜ?がこなかったのは彼の配慮を感じる。

お茶はそれぞれ2杯ずつ。

明日も早く、日記も書きたかったので、24時で過ぎてお開きにさせてもらった。

日記を書いて、なんとか2時前には寝れた。

途中、彼が時間を気にしていたのは何だったんだろう。

無料ツアーの存在を思いださせてくれた。

朝食の話をして写真をみせたら「これかよ!」って笑いあった。

1人旅は寂しいが、この時間が築けるのでいい。

この日も旅のルートは決まらず。

補足

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