【旅の記録】ドイツの歴史を感じる街ドレスデン:ドイツ【98】

ドイツ

11年務めていた会社をやめて35歳から始めた旅の記録

2017年5月出発した旅のことを、記憶と記録を頼りにつづってみようと始めました。
書き方などはだんだん良くなるはず(笑)なので、見守っていただけると嬉しいです。
※途中、記憶違いや文章の構成的にフィクションが入るかもしれません。ご容赦ください。

巡った順序 → 日本 → (韓国) → ロシア → フィンランド → スウェーデン → デンマーク → ノルウェー → エストニア → ラトビア → リトアニア → ベラルーシ → ウクライナ → ポーランド → ドイツ → チェコ → オーストリア → スロバキア → ハンガリー → ルーマニア → モルドバ → (沿ドニエストル共和国) → モルドバ → 続く…

初めての方はコチラから → 11年務めていた会社をやめて35歳から始めた旅の記録と記憶

こんにちは、mickです。

次の日にはチェコのプラハに移動することを控え、ドレスデンでの観光を頼む。
お城好きとして、ドレスデンの北側にあるモーリッツブルク城散策。

ドレスデンは、第二次大戦で大空襲を受け、ボロボロになった街とは思えないほど修復していた。

日本の陶器をたくさん見れたのはラッキー。

なんかやたら移民に飯をせびられたな。移民問題を感じることができたぞ。

日付:2017年8月24日(木)移民にやたら絡まれる

日付:2017年8月24日(木)
地域:ドレスデン
天候:晴れ

風邪ひきそう

昨夜、寝落ちのたまえ、机とは反対にひっくり返っていた。体制と立て直すが、きちんとはブランケットを掛けづらかった。あとでハンガリー野郎が開けた窓からの冷たい風で、起きた頃にはのどが痛くなっていた。

今日は、ドレスデンの北部にあるモーリッツブルクにあるお城へいってみる。鉄道でいくつもりだったけれど、Google先生によると「バスで1本でいけるで」と教えてくれたので、そいつを使う。

ドレスデンからモーリッツブルク城に向かう

韓国の2人は先に出ていっていた。ハンガリーの彼も比較的早くにでかけていた。自分が一番遅いスタートになった。バスは、ドレスデンの北駅から326番で出ている。バスのチケットをどう買えば(どれを買えば)いいかわからなかった。ちょうど、近くにドイツ人の家族連れがいたので、きいて教えてもらった。

バスでいくのは高いけど、黄色い機械で買える、みたいな。モーリッツブルクの番号と1回券を押して買った。このとき、1日券を買っておけば、かなり節約になったのだが。

ガラガラのバスに乗るときに、北海道に両親といった旅行を思い出した。初めての北海道であることと、家族で来たこと。よほど嬉しかったのか、先頭の右側か左側かで座るのを迷っている、はしゃぐ子どもみたいな父の姿を。自分はあの姿が好き。また以降、家族で、両親と。この気持が、働くことにつながるのだろうか。

ザクセン強王の城モーリッツブルク城

バスは順調に進んで、真っ直ぐな道の先にモーリッツブルク城が見えてきた。この景観の出た方はちょっと感動する。最寄りの、MorizburgScholb」では、多くの人が下車した。人気があるのか、多くの観光客で賑わっていた。

池の真ん中にたたずむそのお城は、シンプルながら貫禄があった。フォトジェニックな場所を探しながら、お城に近づいていく。馬車で、池の周りをまわるツアーがあるようだ。ちなみに、池は緑でキレイではない。

モーリッツブルク城へは正面から入り、チケット8ユーロを支払って中へ。最初に入れる「羽の間」は。「鳥の羽根」で作らせたという装飾品が飾ってあった。修復のことも載っていて、これは他の場所では見ることができない貴重なものだった。その発想に驚かされる。しばしば、この「羽の間」で立ち止まってしまった。

城の中は、撮影禁止。解説はドイツ語のみ。少し辞書を使いながら、写真や陶器などを調べていった。目を引くのは陶器。これは、Arita からの輸入品。ここで日本の風を感じて驚いたし、すごく嬉しかった。それも、佐賀県の有田、だし。

日本の陶器との出会い

調べると、ザクセン強王は、多くの陶器を収集していたようで、12万点は所蔵していたらしい。1700年代のものなので、有田焼でもまだ初期のものといっていいんじゃないだろうか。ここにきて、これがみれたのがもっとも大きな収穫だった。何度も見直した。

次は、陶器でできた動物の像。どうやら、マイセンらしい。この関係性をみたとき、お互いに影響しあえる関係は素晴らしいと思う。広間の食事のテーブルは、美しかった。東ドイツ時代には、ここの品々を守るために、森に埋めたこともあったそうだ。戦争の悪の一面。ちなみに相手は旧ソ連。

モーリッツブルクからドレスデンに戻る

展示の後半は、食事についてこだわりがあったようだ。食事を大事にしているところは強い、と勝手に思っている。堪能したあと、休憩を挟んだ裏庭に少し池の周辺をまわってから、ドレスデンに戻る。

帰りのバスの乗り場がわからず、駅近くのバス停まで歩いて行った。途中、放水車の放った水で香りが広がるハーブの存在。ミント系だと思う。心が軽くなり、またアロマの先生を思い出した。香りの力だ。

小腹が空いててもケバブを我慢して、バス停へ。運良く10分くらいで、帰りのバスがきた。チケットは運転手からも買える。降りるのは終点なので、安心してウトウトしていた。

ドレスデンの旧市街と移民のからみ

ドレスデン北駅に戻る。この日に、ドレスデンの旧市街を見ておかないと、明日は出発が午前中。その足でトラムを使い、旧市街へ。川を挟んで違う顔をみせるドレスデンの街。歴史では、第二次大戦で大空襲を受けている。聖母教会の修復の話は、NHKのドイツ語講座でみていた。トラムの車窓からみえる景色は、まったく北側とは異なっていた。

明日のバスのりばをチェックするため、中央駅に向かった。一人怪しい男がいる。物乞いだ。自分がソーセージを食べていると声をかけてきた。
「お腹空いているんだ、わけてくれ」
みたいな。
悩んだが、このときソーセージとパンをちぎってわたしたら、目もあわせずにありがとう、仕舞いにはパンを残して返してくるし。さらに、自分でポテト買ってるし。ファッキングコンボだった。

このとき、あげたくないのにあげたのが失敗。怖くても基本はそれでいいんだろう。他に2人仲間がいた。この自分からソーセージを勝ち取った人のアプローチの仕方は見習っていいと思った。

第二次大戦のあと

スーパーでコーラを買って、気持ちを落ち着かせる。バスは国内線と国際線で乗り場が違うから気をつけてね、とだけ確認しておいた。本当、旧市街の姿と人々が北側と違ってびっくりする。年齢層も上がっている。年齢による格差は、先進国すべての課題なのだろうか。

広場はとても広くて、美しいのだが建設中の姿や近代的なものが景観を壊しているようにみえた。明るくていいのだけれど、少し複雑だ。聖母教会にいくと、よくぞここまで修復したと思わせる美しさ。白をベースにしたシンプルなものだから、よけいにその周りの装飾が目立つだと思う。

撮影は禁止だったので、撮ることができなかった。何かの撮影があったのか、TVカメラがはいっていて、それにつられて何人か写真をとっていた。

その足で川辺に向かって歩いていく。ちょうど、バスカーのオペラが終わったところで、大きな拍手が起こっていた。橋の上は、TVでみた職業のイラスト集が売っていた。なんとなく、プログラマーで探していた。

ツヴィンガー宮殿の陶器展

そこから宮殿っぽい方へいき、ドレスデン宮殿をへて、ツヴィンガー宮殿に居た。入り口に「日本、中国、マイセンの陶器展」をみつけて、心が踊った。閉館は、18時。今は17時過ぎ。お金を気にする自分でも、迷いなく訪れた。

これは大正解。ザクセン強王が集めていたものを展示していて、モーリッツブルク城にいったこともあって、楽しい。日本の白地に青がマイセンに与えた影響、1700年代の陶器、マイセンの動物陶器の素晴らしさ。少ない時間ながらもその分集中してみることができた。初めてマイセンに興味を持った。

宮殿の両サイドに広がる展示。18時ちょうどになるまでとどまった。ロッカーに荷物を預けてたので、誰が置き忘れている人がいる、みたいな空気で笑った。自分が最後の一人、として出ていった。

スタッフの人は、そんな自分を責めることなく、微笑んでくれた。宮殿の庭でボーッとしていた。Wi-Fiをつかんで、実家に頼んでおいた携帯電話の解約にトラブルが起こっていたが、気持ちはすぐに切り替えた。

小さな男の子がお母さんの気を引こうと、わざと逆方向に進む。半泣きだがウソが入っている。しょうがないなぁ、とお母さんが迎えにいって、笑いながら逃げるその子。甥っ子の姿を思い出して、こういう駆け引きは、人間として共通なんだと思う。

そして、幸せってなんだって思った。自分、自分たちは何を求めて、何を求め続けるのだろう。大切なものは身近にあると知っていながら。

スタバで日記と移民再び

近くに20:30までやっているスタバをみつけて、日記を進めたくて向かった。人が少なくてラッキー。3組くらいだったから、余裕で居続けられた。集中できて、進みはよかった。20:20にそとにでて、Rまくんとの話を思い出しながら、夜の旧市街の姿をみる。該当がついていて、人通りも少なくなったが、お店にはお酒を楽しむ人で賑わっていた。

川辺を経由して、ホステルの方向へ。ここまでは注意を払っていた。問題はケバブを買ってから。トラムの乗り場を見て安心したのか、懐かしいプラハにいけることに浮足立っていたのか。それはわからない。

危ないと感じていた通りを時間の節約と思ってケバブを食べながら歩いていた。通りの中頃で、車の間から男が現れて、昼間と同じように飯を分けろという。断ったが、マットレスを柱に叩きつけて脅してきた。このときは怖さを伴ったことをおぼえている。

まあ、すぐに引き下がってくれたが。この男の姿は昼間にみていた。ソーセージを分けたやつの仲間だ。旅に出て3か月。余裕、そして道が見えなくてボーッとしていること。今が一番危ない。

それでもどう気合をいれていいか。わからないことだらけだ。今から懐かしさに浸っている。過去にフォーカスするときは、いまどころか、未来がわからなくなったときによく起こる。泥、沼、コールタール、旅の先輩のことが浮かぶ。

少なくとも彼にはギャンブラーという支えがあった。自分にはない。これがきつい。考えすぎか。ホステルの近くで4人の日本人グループとすれ違って、いまの自分と比べてしまう。

なぜひとりか、なぜ狙われるか、どうしたいか。
頭回らずホステルに。日記の続きを書いて、23時に部屋に戻る。ポストカードの下書きを書いていると、他のルームメイトが返ってきた。

韓国人女性のコントロール

ハンガリー野郎と偶然にもまた、韓国人カップル。ハンガリー野郎はかなり酔っ払っていて、騒がしいわ絡んでくるわでガキみたいで面倒だった。

シャワールームに鍵をかけるのがおかしいとか、日本人は韓国人が嫌いだとか、sまほはいいサウンドの聞けるLGがいいとか、長い充電ケーブルいいよね、とか女のケツをみてニヤついたり。仕舞には、韓国の子に話しかけてからむ。

自分が風呂に入っている間の会話が怖いわ。ポストカードについては悪くないね、と上から目線。韓国の子はテーブルが使いたかったらしく、日本語で、まだ?的なことを聞いてきた。

ハンガリー野郎がうるさいなか、なんとかポストカードをかきあげて、ベッドに入れるようになる。韓国の子も上手。
「ほら野郎ども、もう遅いから寝るよ!」
と号令をかけた。これでハンガリー野郎もおとなしくなって眠ったようだ。
遅くまで、彼女のベッドライトと書物の音がしていたので、日記を書きたかったんじゃないだろうか。短くてもちょっと濃い時間の流れたドイツ。

明日には、チェコのプラハというのが信じられないな。そう思いながら眠りについた。あとで思ったが、ハンガリー野郎は、ママを求めていたのか「Do you understand?」がうざかった。

補足

旅日記を応援してもいい方へ

最後まで読んでくれてありがとうございます。嬉しいです。
このブログは、広告料で維持しています。

普段のオンラインでの買い物を、下のリンクをクリックしてから買っていただくだけでOK。
私のモチベ維持にもつながるので、可能な範囲でよろしくお願いします。